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独白!! ピーター・アーツ引退1万字インタビュー完全版!!

Nov 20, 2013
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11月18日〜25日まで、東京メトロ半蔵門線渋谷駅にドド〜ンと掲出されている「ピーター・アーツ1万字インタビュー広告」。全長約30メートルにも及ぶ巨大広告が話題となっているが、この広告の中にちりばめられたアーツ選手の1万字インタビューの全文を完全版としてお届けします!

 

「GLORY13」の記者会見でも言ったが、本当は来年引退する予定だったんだ。でも、俺はどうしても日本のファンの前で引退したいと思っていた。だから、今回の大会をグッドタイミングとして格闘家人生に幕を引くことを決めた。ケガとか年齢はあまり気にしていない。右拳は3カ所折れて手術もしたけど、感覚はあるし、ファイトだって問題ない。カラダの衰え? まだまだ若いよ、見てわかるだろ(笑)。ただ、いつかは辞めなきゃいけないときが来る。それが今だったというだけさ。俺をビッグにしてくれたのは日本だから、日本に恩返しがしたかったんだ。これは日本のファンに向けた、最後のあいさつになるだろう。だから俺も、ここで自分の人生を振り返ってみようと思う。

 オランダで生まれた俺がファイターになろうと思い始めたのは5歳くらいの頃で、そもそも祖父と叔父がボクサーだったからだ。彼らをずっと見ているうちに、俺にもできるんじゃないかと思うようになった。二人ともレベルが低かったからな(笑)。俺が15、6歳の頃にスパーリングをしたら、いきなり叔父の歯を2本折ってしまったんだよ。それからは二度と家族とはスパーリングをしなかった。しかも、母親は俺がボクサーになることにずっと反対していた。オランダは日本と違ってシビアな場所だから、ボクシングなんかやったら不良になってしまうと心配したんだと思う。でも、俺はファイターになりたかった。そこで目をつけたのがブルース・リーさ。12歳のときに、彼の影響でテコンドーを始めることにしたんだ。でも、俺はテコンドーに満足できなくてね。次に選んだのがキックボクシングだったというわけだ。どっちにしても、母親は競技の見分けがついていなくて、「ボクシングじゃなければ安心だわ」って考えていたし(笑)。まあ、今さら止められたところで、俺にとっては「トゥー・レイト」だったけどな。

 とにかくそうやって、俺のファイター人生は始まったんだ。その頃から強かったかって? もちろん! 1年ほどでテコンドーはブラックベルト(黒帯)だったし、14歳のときにはキックボクシングの初試合を23歳の大人とやったんだ。まだキックボクシングを習い始めて3カ月後だったけど、俺は体格が良くてね。14歳で現在と同じ身長(192㎝)だったから相手がいなかったんだ。でも体重は78㎏しかなくて、今よりもずっとスリムな体型だよ。しかも、試合ではさらに2㎏落とした。そのときは素早く動けるほうが有利だと思っていたんだな。今振り返るとバカだよ。初めて試合でファイトした印象は……あんまり記憶にないな(笑)。ただ、リングに上る前はさすがに緊張したのを覚えている。それから俺は順調に勝ち進んで、17歳で7試合6KOの記録を作った。それでもう、アマチュアでは試合をする相手がいなくなってしまった。必然的に、プロフェッショナルの舞台に上がることになったんだ。

 キックボクシングを始めてからは、学校に通いながらパートタイムジョブもたくさんやったよ。主にクラブの用心棒だ。何年もやって、毎晩のように喧嘩に巻き込まれた。だいたい一晩で3、4回は揉め事があったと思う。俺は当然、ストリートでも負けたことはなかったけどね。17歳のときには、一度に10人を相手にしたこともある。……あの頃は本当に数えきれないほどの事件があった。バーカウンターの上から椅子が降ってきて、アタマに直撃したこともあった。血が吹き出して病院に担ぎ込まれたんだけど、両親は俺のビジネスの正体を知らないものだから、何があったのかとひどく驚いていた。後ろめたくて黙っていたというよりも、いらぬ心配をかけたくなかったんだ。だから病院のベッドの上で、母親から「大丈夫かい?」って聞かれても、「ノープロブレムだよ、母さん」と笑顔を見せた(笑)。ファイターとしての知名度が上がっていくにつれて、用心棒を頼まれる機会も増えていった。ただ、ヤバいことも増えるんだよ。21歳の頃にベルギーのあるクラブで用心棒をやっていたときには、7人組の〝バッドガイ〟たちにリンチされた。全員が拳にメリケンサックをはめていて、ガンガンに殴られたんだ。アタマから血がドロドロと流れて、さすがに俺も「殺されるかも」と思ったよ。今こうしていられるのは、2分間くらい殴られていたときに警察が来て、あいつらが逃げたから。たった2分間だけど、俺にとっては生涯でもっとも恐ろしい2分間だったね(苦笑)。それ以来、あんなにヤバい経験をしたことはない。ラッキーなことに、今はビジネスとしてファイトするだけさ。

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 エピソードは前後するが、「ランバージャック」と呼ばれるようになったのもティーンエイジャーのときからだった。18歳のときにカリブ海のアルバ島でマーク・ラッセルを1ラウンドKOしたんだ。そしたら、ラッセルのコーチが「すごいハイキックだ! まるで斧を振るうランバージャック(木こり)のようじゃないか!」って驚いてね。実際に俺の父親はランバージャックだったから、その後も気に入って使い始めた。今でもナイスなニックネームだと思っている。有名になってからはよく、「父親へのリスペクトか?」と聞かれるけど、真実はそういうわけだ(笑)。日本でも入場服でお馴染みの赤いチェックのジャケットは、その頃にバス・ルッテンからプレゼントされたものだ。自分で袖の部分をカットして、俺なりの「ランバージャック」を表現してきたつもり。

 さて、肝心の日本に来るきっかけだけど、あれは92年のパリだった。当時「8年間無敗」と言われていたモーリス・スミスを俺が倒してしまって、クリス・ドールマン(オランダのカリスマ格闘家)の目に留まったんだ。ドールマンはリングス・オランダの代表でもあったから、彼にリングスの創設者である前田日明さんを紹介されてね。そこで初めて、「日本で試合をしないか」と誘われたんだ。俺にとっても魅力的なオファーだったから、1カ月後には日本に旅立っていたよ(92年5月16日の「リングス光臨」が日本初試合となる)。日本をどんな国だとイメージしていたか? そうだな……、オランダからは遠すぎて火星か金星にでも行くんじゃないかと思っていたよ(笑)。ただ、日本にはすぐ馴染んだ。みんなフレンドリーだし、夜の街で身の危険を感じることもないからね(笑)。素晴らしいのは、日本では選手に対するブーイングがないんだ。オランダでは試合内容が気に入らないと暴れる客がいたくらいだったのに、何て礼儀正しい人々なんだろうと感動したよ。それで92年のうちに再び日本へ来たんだけど、そのとき大阪で石井(和義)館長に会った。まだK-1ができる前の話さ。石井館長はビデオで俺とモーリス・スミスの試合までチェックしていたようで、ファイトスタイルについていろいろ質問されたのを覚えている。

 それで翌年(93年)にK-1がスタートして、俺も参加することになった。しかし、K-1には本当に驚いた! だって、当時の俺はまだ23歳で、オランダでは500人を前に試合をしていた。それがK-1になると、一気に1万人以上を喜ばせなきゃならない(第1回大会は代々木体育館で行われ、1万2000人を動員)。そんな大観衆のなかで試合をしたことはなかったから、正直ビビったのは確かだよ(笑)。「これはクレイジーなことが起こっているな」って思ったものさ。それから先はみんなが知っての通り、俺は3回チャンピオンになり、K-1が終わった後もずっと現役で闘ってきた。K-1と日本が俺を世界で有名なファイターに育ててくれたと思っている。初期の頃はファイター同士の仲も良かったんだ。試合で殴り合ったあとに、一緒にビールを飲んでディスコに行ったりしてさ。今はそれぞれ事情があるから、すっかりなくなってしまったけど。アンディ・フグ、マイク・ベルナルド、アーネスト・ホースト、ジェロム・レ・バンナ……。みんな友人だった。いつも六本木に繰り出して、バカ騒ぎしていた。女の子がいる店にも行ったかどうかは、今は家族がいるからノーコメントだ(笑)。よく覚えていないけど、盛り上がれば自然とそうなることもあったかもしれない(笑)。まあ俺が言いたいのは、「人生は楽しむためにある」ってことだ。シリアスなのは試合だけで十分だろう? 俺たちが集まって遊びに行くときも、大抵はジョークを飛ばしあっていたものだよ。その日の試合結果についても冗談のネタにしたりしてね。例えば、サム・グレコと飲みに行ったときは、俺のハイキックであいつがフラフラになった様を目の前で真似してやった。そんなジョークが通じる間柄だったんだよ。

 ところで、誰が一番モテたかって? それはまず俺、そしてアンディだ。特にアンディは日本でいち早くスターになった男だからな。K-1に出場する前は彼のことをよく知らなかったけど、すぐに良いやつだとわかったよ。だから日本のファンからも愛されていたんだろう。K-1がメジャーになるに従って、俺も街を歩いているだけで「ピーター!」って言われたり、サインを求められるようになった。ビッグになったものだと実感できたよ(笑)。当時を振り返って、俺たちはさぞ儲けていただろうと聞かれるけど、母国にけっこう税金を持っていかれたからなあ……。特にK-1が盛り上がっていた90年代はオレも20代だったから、夜は女の子と遊んだり、朝まで酒を飲んだり。もちろんトレーニングはしていたが、それだけでは人生つまらないだろ? その頃は「明日どうなるかわからないのだから、今を楽しまないのは損だ」と公言していた(笑)。ファイターとしてやっていけなくなったら、オランダに帰ってトレーラーハウスに住めばいいやとも本気で考えていた。今でも心構えは変わらないけど、俺には子供が二人いて、彼らにはベストな生活を送らせてやりたいと思っている。だから昔みたいなライフスタイルは封印したんだ(笑)。

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 おっと、話が逸れたな。K-1の思い出に戻ろう。数えきれないほどのファイトをしてきたが、なかでも印象に残っているのは98年のトーナメント大会だ。1回戦からすべてKO勝ちしたこともだが、なかでもはっきりと決勝戦のことは覚えている。アンディ(・フグ)と対戦して、オレが左のハイキックでKOしたんだ。「カポン!」というすごい音がした。当たった瞬間にKOだとわかったよ。ハイキックで倒した瞬間は最高の気分だ。こいつより俺のほうが強いんだってはっきりするからな。もっとも、ハイキックは誰でもできるし、作戦なんてない。ただ、「ここだ!」というタイミングを見極めるのが難しいんだ。俺はそれを上手く捉えて、一発決めてやるだけ。それで観客が沸いてくれることが、俺にとっては何よりエキサイティングなんだ。そんな厳しいファイトをやってきた関係だが、俺とアンディは親友でもあった。だから、アンディが死んだときはとても、とても悲しかった。俺は日本にいて、彼が危篤だという連絡があった。急いで駆けつけたけど、もはや昏睡状態で最後に言葉を交わすこともできなかった。病院での記者会見中も、俺は涙が止まらなかったよ。しかも、K-1には若くして亡くなった友人がもうひとりいる。マイク・ベルナルドだ。K-1のピークが過ぎたあとで、マイクとはもう長い間連絡をとっていなかったんだが、12年に故郷(南アフリカ共和国)で自殺したと聞いて、「マイク、なんてことをしたんだ」と思わずつぶやいた。俺たちは世界中で試合をして、何度も語り合った。二人とも、本当に素晴らしいファイターだった。まだまだ闘えたはずなのに、残念でならない。

 ……湿っぽい話になってきたから、少し空気を変えようか。これは引退だから話すんだが、K-1には俺と闘うのを嫌がっていた選手が多かった。みんなが俺の“ライバル”と呼ぶアーネスト・ホーストだってそうさ。こっちがやる気でも、アーネストはいつも「ピーターとやりたくない」と言っていた。もっともアーネストだけじゃなく、誰にとっても俺とファイトするのは「悪夢」だったらしいよ(笑)。それでちょっとした揉め事になったのが、セミー・シュルトとの対戦だ。07年のトーナメントでセミーとファイトしたとき、俺はスリップで右ヒザを痛めてTKO負けになった。俺にとっては不本意なアクシデントだったのに、あいつは「ピーターを倒してやった!」と自慢していた。それが気に入らなくてね。だから俺は翌年、「セミーがチャンピオンのままではK-1がつまらなくなる」と谷川(貞治・元K-1プロデューサー)さんにリベンジを訴えた。俺が思うに、セミーはチャンピオンの器じゃなかった。グッドファイターの条件とは、まずメンタルが強いこと。それから、トークスキルがあることだ。例えば、モハメド・アリのようにね。彼は喋りすぎだとは思うけど(笑)。だからインタビューが一言、二言で終わってしまうセミーみたいな選手はダメだ。彼は人間としては良いやつだけど、K-1のチャンピオンには相応しくない。だから俺は「あいつを引きずりおろしてやる!」と思って行動に移した。ただ、それでもマッチメイクが実現しないから、俺はアムステルダム(オランダ)のリングで、「開幕戦でセミーと闘いたい」とマイクアピールしたんだ。数千人のオランダ人の前で挑発されたら、逃げられないだろうと思ってね! あれには事前の打ち合わせは一切ない。みんなチャンピオンにはなりたいくせに、「セミーはデカいからやりづらい」とか言って避けていた。いつの間にか、K-1の選手はビッグマウスなだけでハートが小さいやつらばかりになっていた。俺はいつでも誰とでもやるって言い続けてきたし、それがチャンピオンってことだろ? 俺はファイターとしてそれを証明してきたつもりだ。

 06年のアムステルダム大会(オランダ)だってそうさ。俺はアーネストとボブ・サップの対戦を放送席で解説するために呼ばれていた。それなのにボブが直前にボイコットして、急に俺がアーネストとファイトすることになったんだ。今だから言うが、俺のコンディションは最悪だったんだよ。試合の予定がなかったから1カ月くらいトレーニングをしていないし、前日にパーティーがあってウオッカを1本は飲んでいた。で、2時間くらいしか寝ていなかったうえに、放送席でもリラックスしてビールをあおっていた。そうしたら石井館長がやってきて、「ホーストとやってくれ」って言うんだ。まあ、シラフで考えたらめちゃくちゃな話だけど、そのときは俺も酔っていたので気軽に「OK」って答えたよ(笑)。トランクスすら持ってきていなかったんだけどな。誰かが用意した最悪なデザインのトランクスもあったんだけど、結局はセミーから借りて出場した。そうそう、準備中にアーネストが控室まで来て、「本気でやらなくたって、ファイトマネーはちゃんと出るぞ」って言ったんだ(笑)。でも、俺はそんな中途半端なことはしない。ただ、体力が1ラウンドしか持たないことはわかりきっていたから、すぐに勝負を決めるつもりだった。しかし始まってみれば、ひどい内容で判定負け(笑)。オランダ人からブーイングの洗礼を受けたほどだ。ボブ・サップとはその翌年(07年)に同じアムステルダムで闘ったよ。俺の故郷だから親戚一同が観客席にいて、素晴らしいファイトを見せてあげようと思っていた。それなのに、ボブはたった26秒でノックアウトさ。正直なところ、俺にとってボブ・サップやチェ・ホンマンみたいな選手はファイターじゃない。ただのデカいエンターテイナーだ。対戦相手がリアルなファイターであれば素晴らしいファイトを見せられたのだけど、あいつらは違うんだとこの試合ではっきりわかった。

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 90年代のK-1はグレートな試合ばかりだった。なのにボブ・サップみたいな選手にダメにされたようで、残念に感じたよ。それからK-1は急激なスピードで勢いをなくしていった。もちろん脱税の問題もあっただろうが、ボブ・サップやチェ・ホンマンのような選手が出てきたことで、「こんなのはつまらない。リアルファイトじゃない」って観客が離れていったことも原因だと俺は思う。もちろん、自分だって常に完璧なファイトを見せることができたわけじゃないさ。俺にも後悔している試合はある。ワーストバウトはバダ・ハリとの一戦(08年トーナメント大会)だ。あまりにも不甲斐ない結果だったので俺は再戦を希望していた。だからセミー(・シュルト)のときと同じように、わざわざプレスの前で、「挑戦に応じないバダはチキン野郎だ」と挑発してやったんだ。そしたらバダは狙い通り、「それならこの場でやってやる!」と来た。だけど、結局はK-1があるうちにマッチメイクが実現しないまま、バダは暴行事件を起こして裁判になった。同じオランダ出身者だけに、再戦できなかったのがもっとも心残りな相手だよ。

 そうだ、もうひとつ話していないことがあった。ずっと前に、PRIDEから出場をオファーされたことがあるんだ。小川直也と闘ってくれってね。もちろんルールは総合格闘技だ。具体的な時期は覚えていないが、PRIDEで小川が有名になり始めた頃だったと思う。ただ、俺は彼のことを知らなかったから、柔道で金メダルをとった選手だと聞いても、「ふーん」って感じだった(笑)。でも、オファーがあったのは一度きりで、どんな顛末になったのかも聞いていない。そもそも総合格闘技に出場するつもりがなかったんだ。あれはキックボクシングとはまったく別のスポーツだし、観客としてもK-1のほうがエキサイティングだ。30分くらいグラウンドの攻防が続くことがあるだろ? あれに退屈してしまう。スタンディングとグラウンドがミックスされた試合はスリリングだと思うけどね。日本のファンの間で、K-1とPRIDEのファイターでどっちが強いのか議論になっていたのは知っているよ。特に「グレイシーが最強だ」っていう人は多かった。確かに実力は認めるけど、当時は観客も、選手でさえもグラウンドのテクニックがどんなものかよくわかっていなかったはずだ。だからグレイシーは勝てた。今は状況が変わったから、それほど上手くいかないんじゃないかな。俺自身がグレイシーに勝てるかは……、わからないよ。大口を叩くのは、俺の趣味じゃない。実現するわけがないものにコメントしても仕方ないだろう。それじゃあ、何でプロレスに参戦したのかって? アントニオ猪木がオランダまでやって来て、直接オファーされたんだ。普通に交渉して、納得のいく内容だったからOKしたまでだよ。猪木が日本ではもっとも有名なファイターだとは知っていたし、「Dynamite!!」の会場で見たこともあった。最近、彼が立候補したときは応援もしたよ。道端でファンに写真をいっぱい撮られて疲れたね。だいたい、俺は人が良すぎるんだ。頼まれたら断れない。昔は困っている選手にお金を貸してあげたりしたものさ。誰かは言わないがね。人はそれぞれ問題を抱えているものだし、それを助けてあげるのは自然なことだと思う。

 俺は「20世紀最後の暴君」なんて呼ばれていたが、ファイターと試合以外でケンカしたこともない。問題を好んで起こすやつもいるが、俺は嫌いだ。ファイトしたければリングで闘えばいい。ただ例外があって、家族を守るためなら何でもする。娘が学校で男の子にいじめられていたんだが、俺はその話を聞いてそいつに、「今度うちの娘に手を出したら、ケツを蹴っ飛ばすからな! ついでにお前の親父も二度と起き上がれないようにしてやるぞ!」と言ってやったんだ(笑)。自分に火の粉が降り掛かってくる分には平気さ。でも、娘は女の子だから俺が守ってやらないと。そういう意味では、引退してもソファでのんびりするような生活を送るつもりはないよ。家族のために働かないと、妻に離婚されてしまうからね(笑)。ジムを運営したり、選手を育てたり、やることはたくさんあるだろう。日本にもたまに来るつもりだ。俺は日本が大好きだからね。

 全盛期を懐かしく思うよ。アンディ(・フグ)やマイク(・ベルナルド)もいて、何万人という観客の前で俺たちは殴り合った。K-1は本当に良い大会だった。なかでも98年にアンディを破って優勝したときは最高の気分だった。何年も、グレートな時間を過ごしたよ。K-1がスタートしたときからずっと参戦し続けた俺が引退することで、ようやく幕が降りることになる。でも、思い出は俺たちファイター、そしてファンの間にずっと残る。今回の「大引退」は、新しい時代を始めるために必要なことなんだ。俺たちの時代は、俺たちの手で終わらせる。日本のファンにはずっと応援してくれた感謝を伝えたい。そして、最後まで俺はリアルファイトを見せることを誓うよ。12月21日の試合は、間違いなくハードな内容になる。GLORYは若手を育てたいと思っているから、対戦相手にヘビー級チャンピオンのリコ・べホーベンをぶつけてきた。普通は引退試合といったら、イージーなカードになるはずだろ? でも俺は気にしないし、負けてやるつもりもない。べホーベンには、「いいか、俺を倒すのは大変だぞ」と伝えておいてくれ(笑)。しかし、これで本当に最後だ。日本は俺を育ててくれた。だから日本でケジメをつける。ありがとう、さようなら。最後まで「ガンバリマス」。


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